■観る 歴史


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 「弁慶の一タンガラ  べんけいの-たんがら

 お山王森を「弁慶の一タンガラ」と呼ぶ。タンガラとは
柴をまげて縄をからんで田籠で、百姓は草や堆肥を背
負うものである。このタンガラに一杯の土を弁慶が亀割
山から背負って来て伏せ、しばらくこの地に休養した記
念に作った森だそうな。義 経一行が小国 郷を通ったの
は、亀割山、瀬見、成合淵、月楯、本城、富沢、堺田と
たどり、鳴子に越えたという。



 月楯の弁天様  つきだてのべんてんさま

 北の方が難産で苦しんだとき、「月楯の弁天様」に祈願して無事御産をすませることが出来た。
一行がここを通り過ぎる折、義経は弁慶を代参させて、お礼を述べさせたという。  
 この神社は、月楯字村内にあり、厳島神社とも称し、郷民の厚く信仰しきた神社である。
 祭神は市杵島姫命、即ち弁財天である。小国開発草分けの伝説の発生の神で、田沢内匠介
が安芸国から勧請したといわれている。田沢内匠介が七衆を同行し、現在地を開墾し、弁財天
堂を建立し現在に至る。   
 
    「弁天様境内の絵馬」



 「太郎田観音」  たろうだかんのん

 若宮には、太郎田観音があり、最上33観音の32番
札所となっている。本尊は11面観音。この観音を管理
する滋雲山明学院は、明治初期までは葉山はの修験
で、その後に天台宗の寺院となった。伝説によると小国
の地は、天平年間(729〜49)頃に開かれたが、この
観音はその開発に携わった伊豆三郎という人の信心仏
(11面観音)をまつったことに始まるという。正観音を浮
き出させた径20センチほどの造の円形懸仏は、一説で
は、600年以上前の作と言われる。翁頭部像は高さ7
センチの小さな木彫りで、明学院管理の諏訪神社のご
神体。とぐろを巻く蛇の胴体に、あご髭の翁の頭部が乗
る珍しい彫り物である。



 「大壇の碑」  おおだんのひ 

 大壇の碑は、月楯の大沼義明氏宅の敷地内にあり、高さ
225センチ、最大幅77センチ、最大厚44センチの大型の
板碑である。嘉暦2年(1327)2月つ建立の町内最古の板
碑で、最上地方で制作された板碑としても一番古いと言わ
れている。碑面に刻まれた種子(密教で仏、菩薩などを表
示する梵字)は金剛界大日を表わす「   」(バン.カ)。伝
えによると、天応年間(1319〜1320)頃に東奥遊覧の
途次、月楯で没した三位中納言久我光成卿という公家を
弔った供養塔と言われている。



 「芭蕉の句碑」  ばしょうのくひ 

 向町の芭蕉句碑は、「柴つけし馬のもどりや田植えたる
」の句を刻んだ昭和30年再建碑。書は天山こと小川信
芳氏のもので、高さ93センチの碑、この句は、芭蕉が元
禄7年(1969)に伊賀上野で詠んだ句で、この町に直
接の関係はないと言われている。



 草餅地蔵  くさもちじぞう


 本城の鉄道踏切のところに、等身大の石の地蔵様が
立っている。
 むかし、飢饉が続いたとき、餓死人回向のために祀ら
れたものと伝えられている。この地蔵様のわきに、一尺
ほどの達磨の形をした自然石が祀られている。この地蔵
様は、時々姿をかくして旅に出るそうである。本当は、こ
の地蔵様は地蔵ではなくて、山の神であって、村の中に
子供が産まれるときには、必ず地蔵様とともにその家に
行き、生まれ子の道(運命)を決めるのだそうだ。このと
き、地蔵様は決まって長命を授けようとするが、山の神
はいつも短命を主張するので、実際の寿命はその中間
に決まるのだという。地蔵様が姿を消すのは、このため
であると伝えている。 また、この神様は夜遊びの好き
神様で、ときどき娘の姿に化けては、方々浮かれて歩く
ので。「夜這い地蔵」とも呼ばれている。このためか、
びの地蔵としても知られており、秘かに願いをかける娘も少なくない。
 また、この地蔵様は草餅が大好きであるという。村の人々は、草餅をくと、きまってこの地
蔵様に供えることにしているという。「草餅地蔵」と呼ぶのはこのためである。



       「大天馬様」  だいてんばさま

 黒沢には、大天馬様という神社がある。大天馬様
のお姿は頭が竜で、身体は馬、背中に鷲の翼を持っ
ている奇妙な姿であるという。大天馬様は、この姿で
雲を呼び、雨を呼んで、天空をかけめぐる神様である
という。また、ときどき、山奥の「まのがみ滝」に現れ
て、水浴びをするということである。また、大天馬様の
お姿は蛇体であるともいい、水の神であり、その使い
のものは蛙であるというので、木や石で造った蛙がた
くさん奉納されている。蛇にしても、蛙にしても水と縁
があり、もともと農作に関係ある神であろう。大天馬
様の奥の院は、先の「まのがみの滝」であるといい、
いまでも雨乞いの場所になっている。
 いまは、牛潜の大天馬様と同じように、馬を守り、女の下の病気を癒す神、安産の神として崇
められている。病人が出ると、家の人がこの神社に参って、病気が癒れば、新しいものととりか
えて奉納する習わしがある。
 また、境内に祀られている石の蛙は「いぼびっき」と呼ばれ、手足のいぼをこすると、奇妙にな
おるという。 また、子供の手足に出来る「いぼ」を治してくれる神として広く信仰されている。昔は
黒沢で麦を作ったり、井戸を掘ってはならないものと伝えられていた。それは、いつのころか、大
天馬様がほかの神様と麦畑で力くらべをして、折角伸びてきた麦を目茶目茶に踏み倒したので、
人々は、以後麦を作らなくなったからだという。
 また、井戸を掘ってはならないのは、このとき、大天馬様から投げ飛ばされた神様が井戸には
まりこんで、たいへん苦しんだからであるというのである。黒沢では井戸を掘っても良い水が出
ないのはこのためであるといい、この村では近年まで流れ水を飲み水としていた。 井戸を掘っ
てならない理由については、また、大天馬様のお使いの蛙が井戸に落ち込んで苦しんだからだ
も言う。



        立小路才の神  たちこうじさいのがみ

 ビックリするような「男根」の像があり、子宝を授かり
たい婦女子が訪れます。




   「富沢馬頭観音」  とみさわばとうかんのん

富沢の富山馬頭観音は、最上33観音、31番目の札
所であるが、何よりもまず馬を守護してくれる観音様と
して知られ、現在でも馬産の地として有名な南部地方
の人々の参詣が多い。 観音堂には夥しいばかりの絵
馬が掲げられているが、このほとんどが馬の成長を祈
願して奉納したものである。境内には、満州事変や太
平洋戦争の時、遠い戦地で無くなった愛馬を弔う碑も
建てられている。わが娘 と同じく心を砕いて育てた馬
が、戦いで倒れたとなれば、このようにして供養してや
るのが、せめてもの農民の慰めであった。
詳しくはこちら ⇒ 最上札所公式HP
 現在の最上町は、昔は小国郷と呼ばれ、当国切っての名馬を産する馬産の地であった。ここ
で産する馬は、小国駒といい、山形、秋田、越後地方まで移出された。当時の出羽国の名産番
付にも、新庄領内の名産番付にも小国駒の名は記されている。小国郷の馬産は、当地方が夏
季堺田の峠を越してくる冷涼な風雨に襲われて冷害に陥りやすいので、人々は特に馬産に力
を注いだことや、小国川及びその支流流域に広がる綿かな草地が、これを発展させてきたと云
うことが出来るが、新庄藩主戸沢氏の厚い保護政策も要因の一つである。
 すなわち、二代藩主正誠(まさのぶ)は小国駒の改良を企て、相馬、南部の地方に家臣を遣
わして駿馬を求め、これを小国郷の各村に下付した。また、年々馬改めを行って、そのうちの優
秀な駒を藩主の乗馬として買い入れることとした。また、これらの駒を次々に小国郷各村に払い
下げ、この飼料として、一頭につき年大豆4俵一斗余りを下付けした。 これらの事務を掌ったの
は村々におかれた駒頭である。駒頭は、馬造りの名人、達人が選ばれた。現在「封人の家」とし
て知られている堺田の有路家当主は馬造りの名人といわれ、歴代この役に任ぜにれた。新庄
班の保護政策は幕末まで続けられた。
 小国郷の農家はほとんどの家で馬を飼育し、仔馬をとっていた。仔馬が二歳になると(トネコ
馬という)向町で開かれる馬市に連れていき、せり市にかけた。この日は仔馬にできるだけの
御馳走を食べさせ、美しい晴れ着を着せ、家族総出で付き添って行った。それだけに、馬との
別れは、人にも馬にも悲しく辛いものであった。
 この地方では、馬は飼うものでなく、造るものだという。人々は「馬造り講」を開き、春秋2回、
伯楽を招き、馬の健康診断をうけ、各自の馬造りの秘訣を披露し合った。講の日は夫婦とも出
席、餅を搗き、盛大な振る舞いを行った。 正月には、富山馬頭観音別当東善院の住職を招い
て厩祈祷をしてもらい、門口に守護札を貼って馬の無事成長を祈った。万一にも病気にでもか
かれば、改めて東善院からお守りを申し受けてきて、これを水に浮かべて馬に呑ませた。
 このような背景により、富山馬頭観音の縁日の祭りはとてもはなやかであった。参道両側に
露天がびっしりと立ち並び、終日、美々しく着飾った遠郷近在からの参詣人で喧噪を極めた。
東善院に伝えられている縁起書によれば、富山馬頭観音のご本尊は慈覚大師が刻んだ馬頭
観音像であるという。馬頭観音は馬のように速く駈けて仏の教えを広める神様というが、これ
が農家の馬の守護神として拝されることも、大いに故のあることであろう。



     「富山観音の絵馬」  とみやまかんのんのえま (富山観音堂で拝観できる)

 富山馬頭観堂200面近くの絵馬が奉納されており、県
内でも絵馬の多い観音様として知られている。そのうちの
10面が町の民族文化財に指定されている。



   「蝦夷仙人術くらべ」  えぞせんにんじゅつくらべ (富山観音堂で拝観できる)

 蝦蟇仙人術くらべの図は、黒漆木枠つきの木版着色で
、たて116センチ、よこ177センチの、最上町の代表的な
大絵馬である。奉納社は不明であるが、天保12年(184
1)に納められた絵馬で、上山藩の御用絵師.丸野清耕(
1784〜1843)の晩年の作品。蝦蟇仙人と鉄拐仙人の
術の競い合いを描き、構図、色彩ともに見事である。
 蝦蟇仙人の鋭い目配りは「八方にらみ」と言われている
。 33頭並列馬図は、一般には「千匹馬」とも言われ、33
観音にちなんだ図柄である。 木枠つき木板着色で、たて
76センチ余り、よこ100センチの中絵馬。明治33年8月
、岩手県西磐井郡厳美村の佐藤昇治氏の奉納で、作者
は不明。馬頭観音信仰と馬産の関わりを直截表わす絵馬
である。
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