■観る 歴史


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  繋 馬 図   けいばず (富山観音堂で拝観できる)

 繋馬図は、馬産地小国の風土性を存分に表現している。
木枠つき木版着色、たて60センチ、よこ90センチの絵馬。
明治30年、横川の菅新之丞の奉納で作者は不明。



  「荒れ唐獅子」  あばれからじし (富山観音堂で拝観できる)

 「荒れ唐獅子」 荒れ唐獅子は、富山馬頭観音に掲
げられている木彫りで、昭和51年11月19日に、最
上町有形文化財に指定されている。彫り物自体に
銘はないが、同観音堂を管理する東善院に残る記
録(「年代記」からみて、出羽勘七の2代.一刀官龍
の作品と考えてまず間違いはない。おそらく、寛政9
年(1797)に制作されたものであろう。官龍は出羽
勘七初代木龍の実子で、東法田初ケ沢の出身であ
る。生年は不明であるが、没したのは文政11年(1
828)5月26日で、本名は菅嶋勘七、「法橋」の称
号有し、柔剛両様の作風を身につけ、歴史上の小
国大工では芸術
家として最高の境地を究めた名

であった。羽黒山はじめ諸寺社の彫刻に妙技をふるった。
 荒れ唐獅子は、官龍の剛の作風が現れた秀作でノミの使い方の巧みさとともに、力強さと躍動感
が伝わってくる彫り物である。観るものに生き生きとした印象を与える彫り物のすばらしさが、荒ぶる
唐獅子が夜な夜な観音堂を抜け出すので、縄で縛るようになった、との伝説まで生み出された。 境
内にはトチの大木等数多くの文化財がある



 堺 田  さかいだ

 堺田は、東の陸前、西の出羽と呼ばれた頃から以後現在
に至るまで国ざかいであり、お境沢という所があるる。今か
ら300年ほど前に村が出来たと伝え、小国郷では最高位
の村で「小国のチベット」などと呼ばれたりする。水田稲作
は冷害にあうことが多く、昔から馬産や炭焼き木樵など山
で働き暮らして来たところである。

 境内に甘酒地蔵も奉られている。



 おくのほそ道
         中山越え
 おくのほそみちなかやまごえ

 名文「おくのほそ道」の芭蕉翁が小国郷に踏み入った
のは、元禄2年(1689)5月15日の晩方であった。平
泉中尊寺を拝して南に足を返して、「南部道はるかに見
やりて、岩手の里に泊まる。小黒崎、三つの小島を過ぎ
て、なるこの湯より尿前の関にかかりて、出羽国にこえ
んとす。此路旅人まれなる処なれば、関守に怪しまれ
て、斬として関を越す。 「 大山をのぼりて日既に暮れれ
ば、封人の家を見かけて舎りをもとむ。三日風雨あけて
、よしなき山中に逗留す。」「蚤しらみ馬の尿する枕もと
」 と翁は記している。昔の不備な山道とはいえ、岩出山
から向町を一日旅程するのが普であり、堺田で日が
暮れたとは尿前の関でしばらく手間取ったからであろう。
 最上町は、昭和56、59年〜61の4年間にわたり国と山形県から補助を受けて、元禄2年(1
689)に芭蕉が辿ったいわゆる「おくのほそ道」の一部を、歴史の道として保存する整備事業を
実施した。堺田〜笹森間を「出羽街道中山越」の名称、笹森〜山刀伐峠間を「山刀伐峠越」の名
称とし、総延長1200メートル余りの近世道そのものの保存整備工事を実施したほか、要所に説
明板、標識、道標などの設置もしたものである。
 平成2年2月22日、整備工事をした実施区間のうち、山形・宮城県境から国道47号線までの
わずか30メートルほどの部分が、国の史跡に指定された。県境部の河川に木橋を架設し、つづ
いて石階段を設けてある。 出羽仙台街道中山越というのは、史跡指定に当たって文化庁が命名
した街道名で、歴史上実際に使われていた名称ではなかった。近世の小国郷(現在最上町)を通
る幹線道は、羽州街道の間道(脇街道)で、固有名詞はなかったが、太平洋側と日本海側を連絡
する重要な近世道であった。



 旧有路家住宅  きゅうありじけじゅうたく

 旧有路家住宅は、昭和44年12月18日、山形県東部
に古くから見られた茅葺き、寄棟造り、広間型民家の好
例として、重要文化財に指定された最上町有の建造物。
桁行24.755メートネ、梁間9.999メートル、平面積
269.180平方メートル(約81坪)の大型民家である。
年代は特定できないが、江戸初期を下らない時代の創
建と見られている。昭和46年〜48年に解体復元工事
が実施されて、創建当時の様式で保存、一般公開され
ている。

 この建造物は、江戸期には新庄藩上小国郷堺田村
の庄屋住宅で、内部は床の間、いりざしきなどの5部

屋と内庭、内まや(厩)からなる。住宅構造には、江戸期に庄屋役と問屋役を兼ね、街道筋の旅
宿ともなり、熱心な馬産家でもあった有路家の歴史的性格が強く反映されている。
 この住宅は、松尾芭蕉が「おくのほそ道」に記した、堺田のいわゆる"封人の家"と見なされてい
る。元禄2年(1689)5月芭蕉は2泊3日にわたって"封人の家"に逗留し、その時の印象を「蚤
虱馬の尿する枕もと」の句で表現した。




 「新屋聖観音」  あらやせいかんのん

新屋聖観音、かつて新屋には一つの集落がありまし
た。その新屋の村人が、守り神として祀っていた聖観
音です。現在のお堂には、文化年間(1804〜181
7)からの信仰を伝える木札や絵馬が掲げられてい
ます。山刀伐峠の道は、新屋聖観音堂の前を通って
いました。



 「小刀明神」  こづからみょうじん

 小刀明神、堺田の西方は「こずかっぱら」といい
標高350Mほどの台地になっています。その一角
にこずかっ原を開拓した田沢主税介を祀る石組み
の小さな万年道がありまり、小力明神とよばれてい
ます。主税介は業半ばにして、この原で倒れたそう
です。



  「赤倉温泉」  あかくらおんせん

 赤倉温泉は、昔、安部貞任の子孫という安部与五右
エ門が開いたと云われている。また、一説には貞観年
間、慈覚太師が岩手の立谷窟から山形へ越えられる
とき山中の川辺に掘り出されたものとか。大師の掘っ
た湯は万病に効くととの評判で湯治客が増え、その後
この温泉は翁山参拝の宿場ともなり大変にぎわった。
  アカクラの湯は、翁山修験道霊場のさごった(栄え
た)頃、宮城領であったとか。湯漕に小さな虫がいて人
の垢の流れるのを食うので、それを垢食い虫といった
が、のちに赤倉の字を当てつけたとか。甚だたよりのな
い地名の由来である。小国川の北側を湯の原、南側を
出屋沢と呼ぶのが本当の地名である。
 赤倉の湯は、また一説に最明寺時頼が翁山霊場に立
ち寄った折発見した物とも云う。のちに寛永年間には赤
倉に6軒の宿屋があり、明神に12軒が宿場をなしてい
て、温泉と富沢観音参りとあいまって繁昌したと伝えて
いる。



赤倉渓谷    あかくらけいこく
 ゆったりお湯に浸かり、その上釣りも楽しめる一石二鳥
のコースだ。のんびりくつろぎながら身も心もリフレッシュ
できる、休日に持ってこいのスポット。



 山刀伐峠  なたぎりとうげ

   山刀伐峠は、最上町と尾花沢市を結ぶ峠のひ
とつ。標高は470メートルにすぎないが、北の最上
町側は急峻で、南の尾花沢市側は比較的なだらか
な地形をなしている。この形状が昔、山仕事あるい
は狩の際にかぶった「ナタギリ」という冠物の形に似
ていることから、峠名が発生したと言われている。
  山刀伐峠は、中世からの南部地方 (現在岩手県
と青森県の一部)と最上(現村山、山形方面 )を結
ぶ要路であったと伝えられている。天政8年 (158
0)には、山形城主、最上義光の軍勢がこの峠を越
えて、時の小国(最上町)領主、細川氏を攻め入っ
たと言う。
  江戸後期頃には、峠のふもと一刎に新庄藩が口
止め番人を置いていたが、そう交通の頻繁な峠で
はなかったであろう。

 元禄2年 (1689 )5月17日、門弟の曾良を伴った芭蕉は、屈強の若者に案内され、この峠を越え
て尾花沢市へ向かった。芭蕉はその時の印象を「おくのほそ道」に、「高山森々として一鳥声きかず.
」というくだりの見事な文章で表現している。昭和60〜61年度に、芭蕉が超えた峠路は、歴史の道
として保存整備されて、格好の散策路となっている。
   
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